おはようございます kuma です。
ほぼ毎日バイクに乗っています。乗り慣れたバイクってのは文字通り自分の手足となります。無意識のうちにする車体の操作、すり抜けの車幅感覚なんかは、身体感覚つまり自分の体が拡張された状態であります。
ネットワークにいつでも自由にアクセスできるようになると、バイクと同じように意識の拡張が起こります。たとえば、何かを暗記しなくてもそれを検索する方法さえわかっていれば、ちょっと遅い自分の記憶領域として扱うことができるということです。つまりレガシーな記憶装置としての脳は、単なるネットワークへのキャッシュに成り下がります。記憶だけでなく、判断に関しても同様です。この場合の記憶と判断は自分によるものでしょうか、他人でしょうか?
現在の技術では、自らの意思で何らかのコンピュータ端末や携帯電話端末を操作しなければ、ネットワークへアクセスできません。これなら、端末を操作したという境界線がまだあります。でももし、何かを考えただけ、想像しただけでネットワークへアクセスでき、その結果を受け取ることができるようになったのならば、その境界線すら朧げなものとなります。
http://wiredvision.jp/news/200709/2007091123.html
> 一部の研究者からは、逆にゲームが脳を操作する結果になるのではと懸念する声が上がっている。
そりゃ、そういう結果になるんじゃないんですか? 脳へ直接アクセスするようなインターフェイスを禁止するより、こういうインターフェイスから脳を守るような仕組みを作ることのほうが重要であり、でもそんなものは技術的に開発するようなモノではなくて、徐々に脳みそ側で勝手に生成してくれるようなモノだろうなとは思います。もちろん今は、その「ファイヤウォール」がどんなモノかなんて、想像もつきませんけど。
いま皆が持っている「自分とそれ以外を区別する能力」も、人類の長い歴史のなかで徐々に獲得してきたものでしょう(ファンダメンタリストには否定されるでしょうけど)。その「ファイヤウォール」を、自らの意思で設定変更できる時代もそう遠くなさそうです。僕が死ぬまでに実現されるといいなあ。
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